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NO.79「ら」のつく元気になった邦画「ラヂオの時間」(ラヂオノジカン)
<元気コメント>
予想外のストーリーは人間が作るもの。
知らない者同士が集まって、困難を乗り越えながら、何とかゴールを目指すという姿は元気印です。
<あらすじ>
“ラジオ弁天"のスタジオでは、まもなく始まるラジオ・ドラマ『運命の女』の生放送のためのリハーサルが行われている。
初めて書いたシナリオが採用され、この作品によって脚本家としてデビューすることになった主婦の鈴木みやこは、緊張しながらリハを見守っていた。
全てのチェックが済み、あとはいよいよ本番を待つばかりとなったが、直前になって主演女優の千本のっこが自分の役名が気に入らないと言い始める・・・
<データ>
「ラヂオの時間」
製作:1997年 東宝
監督:三谷幸喜 ミタニコウキ
出演:唐沢寿明 カラサワトシアキ (工藤学)
鈴木京香 スズキキョウカ (鈴木みやこ)
西村雅彦 ニシムラマサヒコ (牛島龍彦)
戸田恵子 トダケイコ (千本のっこ)
井上順 イノウエジュン (広瀬満俊) 他
参考:ラジオ・ドラマの生放送中のスタジオを舞台に繰り広げられる騒動を描いた密室シチュエーション・コメディ。
監督はテレビ・ドラマや舞台の脚本家として活躍中の三谷幸喜で、本作が初の映画監督作品となる。
もともと舞台用に書かれた台本を、三谷自身が映画用に脚色。
これにより、91年の「12人の優しい日本人」に続いて2度目のキネマ旬報脚本賞を受賞した。
撮影は「ときめきメモリアル」の高間賢治が担当している。
主演は「恋は舞い降りた。」の唐沢寿明と「良寛」の鈴木京香。
西村雅彦が「マルタイの女」と併せて本作でキネマ旬報助演男優賞を受賞した。
97年度キネマ旬報ベスト・テン第3位(goo映画案内より)
「12人の優しい日本人」: 三谷幸喜主宰で大ヒットとなった東京サンシャインボーイズの舞台劇「十二人の怒れる男」をもとに、『櫻の園』の中原俊監督が映画化。もし陪審員制度が日本に存在したら…という架空の設定で、陪審員として集められた人々の姿をコミカルに描く
「恋は舞い降りた。」:天使の手違いによって死んでしまった男が、生還をかけてひとりの女性を幸せにしようと奮闘する姿を描いたロマンティック・コメディ。監督は「バカヤロー!3 「へんな奴ら」」の第2話「過ぎた甘えは許さない」の長谷川康夫。脚本家・遊川和彦による原案をもとに、テレビなどで活躍中の飯田健三郎と喜多川康彦が脚本を共同執筆した。撮影を「プロゴルファー織部金次郎4 シャンクシャンクシャンク」の矢田行男が担当している。主演は「君を忘れない」の唐沢寿明と、「幻の光」の江角マキコ
「マルタイの女」:伊丹十三監督の体験と見聞から生まれた異色サスペンス。偶然、謎のカルト教団「真理の羊」が絡む殺人事件を目撃してしまった女優・ビワコ。重要参考人である彼女を守るため、警察はふたりの刑事を送り込むことに。こうして、女優と刑事の珍妙な生活が始まった…。
<「ラヂオの時間」と言えば>
★「ラジオの時間」と「ラヂオの時間」
『ラジオの時間』(ラジオのじかん)は、1993年に上演された、劇団東京サンシャインボーイズの演劇。脚本・演出は三谷幸喜。
1997年には三谷幸喜の初監督作品として、『ラヂオの時間』のタイトルで映画化された。
なお、舞台版は「ラジオの時間(Radio Time)」と記述し、映画版は「ラヂオの時間(Welcome Back Mr. McDonald)」と記述する。
三谷が初めて手がけた連続ドラマ「振り返れば奴がいる」の脚本が、三谷の与り知らぬところで書き直されていた、という経験から生まれた作品で、1993年に三谷幸喜が主宰する劇団「東京サンシャインボーイズ」の作品として脚本が書かれ、上演された。
映画化されると、テンポの良い展開と、絶妙な笑いで人気を博し、各賞を総嘗めにした。
またベルリン映画祭にも出品され、三谷曰く「ドイツ人がこれほど笑うところを見たことがない」。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
★三谷幸喜(ミタニコウキ)
日本の劇作家、脚本家、俳優。 血液型はA型。身長174.8cm。妻は女優の小林聡美。
東京都世田谷区出身。当時全盛期だった大相撲の横綱大鵬幸喜にあやかって「幸喜」と命名された。
(活動初期では一橋壮太朗の芸名)
1983年、私立世田谷学園高等学校卒業後(獨協中学中退)の日本大学芸術学部在学中に劇団「東京サンシャインボーイズ」結成。
活動初期では一橋壮太朗の芸名で自ら役者もつとめていた。
劇団の活動と平行して放送作家としても活動をしており、『アイアイゲーム』『欽ドン!』『お笑いマンガ道場』などの番組構成などに携わる。
テレビアニメ『サザエさん』の脚本を手がけたこともあるが、3本目に執筆した「タラちゃん成長期」(タラちゃんが筋肉増強剤を使ってオリンピックに出る夢をみるというストーリー)がプロデューサーの逆鱗に触れて降板させられる(なお、作品は4本作られたらしい)。
フジテレビの深夜番組『やっぱり猫が好き』の脚本を一部担当し(このドラマが小林聡美と結婚するきっかけとなった)、その後番組『子供、ほしいね』のほとんどの回を担当(なお、この作品には主人公・久保田うららの兄役で三谷幸喜本人が出演している)したことから一般に名が知られるようになり、1993年『振り返れば奴がいる』で連続テレビドラマの脚本家としてデビューする。
この時、脚本が現場で勝手に直されるという事実に直面し、その体験を活かした舞台『ラジオの時間』を上演する。
この作品は後に三谷の映画監督デビュー作としてリメイクされ、数々の賞を総なめにする(ちなみに映画版は『ラヂオの時間』と表記)。
(チケットが取れない劇団)
この作品の成功により、翌年には『刑事コロンボ』のような倒叙ミステリーとして『古畑任三郎』の脚本を手がけることになる。
この作品で気弱な刑事・今泉慎太郎を演じたのは「東京サンシャインボーイズ」の盟友西村雅彦で、彼もこの作品で一躍有名になった(尤も、前作『振り返れば奴がいる』にも出演し「織田裕二を刺した役者」と言われた)。
(松本幸四郎との関わり)
また、同時期に「東京サンシャインボーイズ」の代表作『12人の優しい日本人』が中原俊監督によって映画化され、劇団からは相島一之、梶原善の2人が、舞台と同じ配役で出演している。
1994年頃、劇団の活動に行き詰まりを感じたため、新宿シアタートップスでの『東京サンシャインボーイズの罠』を最後に30年間の充電期間に入る。
劇団の人気が最高潮になり「チケットが取れない劇団」と言われ始めた1993年にはパルコによるプロデュース公演に参加、伊原剛志・松下由樹による二人芝居『ダァダァダァ』の演出・脚本を担当。翌年には、三谷の発案により唐沢寿明を起用したサスペンススリラー『出口なし!』の演出・脚本を担当する。
それ以降も『君となら』『巌流島』『笑の大学』『温水夫妻』『オケピ!』(2001年第45回岸田國士戯曲賞受賞)『バッドニュース☆グッドタイミング』『彦馬がゆく』などのヒット作を次々生み出していく。また、松本幸四郎一家による演劇集団「シアターナインス」との共同プロデュースで『バイ・マイセルフ』『マトリョーシカ』でも脚本を担当した。現在、パルコプロデュースシリーズの中で最も新作の待たれる作家となった。ちなみに、松本幸四郎は、三谷が大河ドラマ『黄金の日日』で大河の脚本を夢見、その後『ラマンチャの男』で舞台脚本家を夢見た経緯があり、『王様のレストラン』の際に、駄目元で主演を依頼して以来のつきあいとなっている。幸四郎自身も、三谷の脚本を高く買っているようである。もっとも、『王様のレストラン』の出演は、娘である松本紀保が、三谷作品のファンで、彼女が強く薦めた結果らしい。
(初の映画監督作品)
1997年には初の映画監督作品として『ラヂオの時間』を発表。
多くの映画賞を受賞、絶賛を浴びる。2001年には自身の体験に基づいた「建築コメディ」とも言うべき監督第2弾『みんなのいえ』を発表。
両作品共イギリスやドイツなどでも上映会が催され、多くの喝采を浴びた。
「みんなのいえ」:「ラヂオの時間」以降、新作が待ち望まれていた三谷幸喜が次の題材に選んだのは“家を建てる”ことをテーマにした“ホームコメディ”。
(長年の夢であったNHK大河ドラマ)
一方『古畑任三郎』以降も『王様のレストラン』『総理と呼ばないで』『今夜、宇宙の片隅で』『合い言葉は勇気』『竜馬におまかせ!』など次々作品を発表、2002年暮れには念願のシチュエーション・コメディ『HR』において、脚本だけではなく総合演出も手がけた。
そして2004年に長年の夢であったNHK大河ドラマ『新選組!』の脚本を担当。
三谷の意向も入れられたというそのキャスティングは賛否両論を呼んだものの、大きな話題となった。
そして、2006年に、続編(大河ドラマ史上初)となる『新選組!! 土方歳三 最期の一日』が1月3日に正月スペシャルとして放送された。
また同年1月3日・4日・5日には『古畑任三郎 ファイナル』も放送され、正月特番ドラマを連続して手がけたことになる。
この2つのドラマはNHKが放送した『新選組!! 土方歳三 最期の一日』の裏のフジテレビに『古畑任三郎 ファイナル』の初日(第1夜「今、甦る死」)が放送され、三谷ファン泣かせな編成になってしまった。
これに関し、『古畑〜』が21.5%に対し『新選組!!〜』は視聴率が9.8%と振るわず、フジテレビ側は「調整が間に合わなかった」と謝罪している。
「古畑任三郎 ファイナル」:2006年新春ドラマスペシャルとして放送された「古畑任三郎 ファイナル」全3話のDVD。巧妙な伏線に目を見張る第1夜「今、蘇る死」、イチローの演技が冴え渡る第2夜「フェアな殺人者」、松嶋菜々子が二役に挑戦した第3夜「ラスト・ダンス」を収録
「新選組!! 土方歳三 最期の一日」:あの「新選組!」が帰ってきた!近藤勇の死から1年後、新選組副長・土方歳三が、最期に函館の大地に見た夢は何だったのか?三谷幸喜が描く、男たちのドラマの総決算。これを見ずに“新選組!”は終わらない。大河ドラマ史上初の続編「新選組!!土方歳三最期の一日」、待望のDVD発売!!
(国際的な広がり)
2004年10月映画版『笑の大学』(監督:星護、主演:役所広司・稲垣吾郎)公開、2004年暮れに舞台『なにわバタフライ』(戸田恵子出演の一人芝居)、2006年に公開した映画『THE 有頂天ホテル』(監督も兼任、出演:役所広司、松たか子他)、2006年に東京ヴォードヴィルショーに書き下ろした『竜馬の妻とその夫と愛人』の再演など、相変わらずの人気作家ぶりが伺える。また2005年4月より清水ミチコとの対談形式のラジオ番組『MAKING SENSE』(J-WAVE)が放送されている。さらに2005年の11月〜2006年の1月にかけて、パルコ劇場プロデュース公演として「12人の優しい日本人」が再々々演された。出演は江口洋介他。この作品が、東京サンシャインボーイズ以外の出演者で上演されるのは、舞台としては初めてのことであった。
尚、『笑の大学』はロシアで上演されるなど国際的な広がりをみせており、IMDBでは少数ながらも高評価を得ている。
(ひそかなベストセラー)
著作である『オンリー・ミー 私だけを』が50万部のベストセラーとなっているものの、あまり公表されていないので「ひそかなベストセラー」といわれる。
テレビ東京系の子供番組『おはスタ』で2006年1月10日?12日の間「やまちゃん」こと山寺宏一の代役として「コーキー」の呼び名で司会出演をした。
2006年の大河ドラマ『功名が辻』(大石静脚本)では、大石に請われて役者として出演、信長に翻弄される将軍足利義昭を演じた。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
2006年11月には、劇団東京ヴォードヴィルショー第61回公演「エキストラ」の脚本・演出を担当。 2007年には、伊東四朗、三宅裕司、佐藤B作による舞台「社長放浪記」の脚本(演出は三宅裕司)、芸術座の後継劇場となる「シアタークリエ」のこけら落し公演「恐れを知らぬ川上音次郎」の脚本・演出を担当することになっている。
また、第4弾監督作品のクランクインも予定されている。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
「オンリー・ミー 私だけを」:東京サンシャインボーイズの脚本家として「12人の優しい日本人」などを世に送り出した著者による待望の初エッセイ集。 --このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。(「MARC」データベースより)
「ヨーク軍曹」(ヨークグンソウ)
<元気コメント>
戦争での活躍より、幸せな生活を求めて、肥えた土地を得るために、自分でできる限りのこととして昼夜を惜しまず問わず働く主人公の姿に励まされました。
<あらすじ>
実際の第一次世界大戦の英雄アルビン・ヨーク軍曹の伝記映画。
田舎町に生まれたヨーク(ゲーリー・クーパー)は、酒飲みの無頼漢だったが、ふとしたことから、神の道を知り改心。
しかし、戦争が始まり射撃のプロのヨークは神を選ぶか国を選ぶか迷った・・・
<データ>
「ヨーク軍曹」
(Sergeant York)
製作:1941年 アメリカ
監督:Howard Hawks ハワード・ホークス
出演:Gary Cooper ゲイリー・クーパー
Walter Brennan ウォルター・ブレナン
Ward Bond ワード・ボンド
Margaret Wycherly マーガレット・ウィチャリー
参考:第一次世界大戦で活躍したヨーク軍曹の伝記映画。
脚本はエイベム・フィンケルとハリー・チャンドリー、ハワード・コッチ、ジョン・ヒューストンが共同で執筆。
製作はジェシー・L・ラスキー、ハル・B・ウォリス、監督はハワード・ホークス、撮影はソル・ポリート、音楽はマックス・スタイナー、レオ・F・フォーブステイン、編集はウィリアム・ホームズが担当。
出演はゲイリー・クーパー、ウォルター・ブレナン、ジョーン・レスリー、ワード・ボンド、マーガレット・ウィチェリーなど(goo映画案内より)
<「ヨーク軍曹」と言えば>
★主演ゲイリー・クーパー
(Gary Cooper,1901年5月7日 - 1961年5月13日、本名:フランク・ジェームズ・クーパー)は、アメリカ合衆国モンタナ州ヘレナ出身の俳優。愛称はクープ。
1901年、出生。
1924年ごろから西部劇映画のエキストラ出演を始め、俳優を志す。
1926年、『夢想の楽園』で本格的に映画デビュー。
1929年、『バージニアン』で西部劇スターとしての地位を確立する。
1930年、マレーネ・ディートリッヒと競演した『モロッコ』で大スターの仲間入りをする。
1936年、『オペラハット』でアカデミー主演男優賞にノミネートされる。
1941年、『ヨーク軍曹』でアカデミー主演男優賞を獲得する。
1942年、『打撃王』で再びアカデミー主演男優賞にノミネートされる。
1952年、『真昼の決闘』で二度目のアカデミー主演男優賞を獲得する。
1961年5月13日、前立腺がんで死去。60歳。死後、アカデミー名誉賞が贈られた。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
『モロッコ』:ゲイリー・クーパーとマレーネ・ディートリッヒという2大スター共演による日本初の字幕スーパー作品。兵士と歌手が酒場で出会い恋におちるが、歌手の彼女を大富豪が惚れてしまい…。
『オペラハット』:油脂工場を営むディーズの下で、大富豪の叔父から相続した膨大な遺産を巡り大騒動が巻き起こる。
『打撃王』:“鉄人”と呼ばれた野球選手、ルー・ゲーリッグの劇的な人生を描いた伝記映画。学生時代からスポーツ万能でヤンキースに入団したゲーリッグだが、小児麻痺で引退を余儀なくされる
『真昼の決闘』:52年のアカデミー賞主演男優賞をはじめ、全4部門に輝いたゲイリー・クーパーとグレース・ケリー共演による西部劇の記念碑的作品(ぽすれん映画案内より)
★監督ハワード・ホークス
(Howard Hawks, 1896年6月5日 -1977年12月26日 )はアメリカ合衆国インディアナ州出身の映画監督。
大学在籍中は飛行機パイロットやカー・レーサーとして活躍していた。
レーサー仲間のヴィクター・フレミングの紹介で撮影所の小道具係のアルバイトをやるようになる。
そこを当時スターだったメアリー・ピックフォードの目にとまり、助監督として取り立ててもらうようになった。
一時期は米空軍に入ったが、除隊後は短編映画の監督、脚本を経て、『栄光の道』(1926年)で長編映画の監督としてデビュー。
以後、ギャング映画『暗黒街の顔役』(1932年)、スクリューボール・コメディの先駆けとなる『特急二十世紀』(1934年)、『赤ちゃん教育』(1938年)、ハンフリー・ボガート主演のハードボイルドの金字塔『脱出』(1944年)、『三つ数えろ』(1946年)、ジョン・ウェイン主演による西部劇『赤い河』(1948年)、『リオ・ブラボー』(1955年)などの作品を撮る。
1950年代に、アルフレッド・ヒッチコックと共にフランスの『カイエ・デュ・シネマ』誌のジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーなどにおいて作家主義の多大な評価を受け、それまでのアメリカでの通俗的な娯楽映画の監督というレッテルから世界的な映画作家という評価が高まっていく。
このことは皮肉をもこめて「ヒッチコック=ホークス主義」などと呼ばれている。
現役時にはアカデミー賞の受賞はないが、1975年名誉賞を授与される。
また、アカデミー賞と縁がないことがかえって(「他の巨匠といわれる映画監督は単なるオスカーのコレクターに過ぎない。」)『カイエ』の評価に繋がっているという向きもある。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
「脱出」:ハンフリー・ボガートがローレン・バコールと初共演したアクション作。ナチス支配下のフランスを舞台に、ボート貸し出し業を営むハリーが、絶えないナチスの横暴な振る舞いに立ち向かっていく。
「三つ数えろ」:私立探偵フィリップ・マーロウは、ある金持ちの老人から、孫娘カーメンが脅迫されているので助けてほしいとの依頼を受ける。捜査を進めるうちにマーロウは、孫娘の姉ヴィヴィアンの行動に疑問を抱く
「赤ちゃん教育」:ケイリー・グラントとキャサリン・ヘプバーンという2大スター共演で贈るコメディ。博物館主に次々と災いをもたらす令嬢とベイビーという名の豹がドタバタの大騒動を巻き起こす。
「赤い河」:インディアンの襲撃、男の友情などを盛り込んで創り上げた傑作西部劇のオリジナルバージョン。リオ・グランデからミズーリまで1万頭の牛を運ぶことになった幌馬車隊の冒険(ぽすれん映画案内より)
NO.77「よ」のつく元気になった邦画「喜びも悲しみも幾歳月」(ヨロコビモカナシミモイクトシツキ)
<元気コメント>
時代、生活環境が次々と変化していく中で、互いに支えあってゆく夫婦の姿に、生きていく元気を頂きました。
<あらすじ>
上海事件の昭和七年--新婚早々の若い燈台員有沢四郎ときよ子は、東京湾の観音崎燈台に赴任して来た。
日本が国際連盟を脱退した年には、四郎たちは雪の涯北海道の石狩燈台へ転任になった・・・
<データ>
「喜びも悲しみも幾歳月」
製作:1957年 松竹
監督:木下恵介 キノシタケイスケ
原作:木下恵介 キノシタケイスケ
出演:佐田啓二 サダケイジ (有沢四郎)
高峰秀子 タカミネヒデコ (有沢きよ子)
有沢正子 アリサワマサコ (有沢雪野)
中村賀津雄 ナカムラカツオ (有沢光太郎)
桂木洋子 カツラギヨウコ (藤井たつ子)
参考:「太陽とバラ」以来久々の木下恵介が自らのオリジナル・シナリオを監督した抒情篇。
撮影は木下恵介とのコンビ楠田浩之。
主演は「ただいま零匹」の佐田啓二、「あらくれ(1957)」の高峰秀子、「「夢に罪あり」より 処女」の中村賀津雄、「悪魔の顔」の田村高廣、この作品で木下監督に抜擢された有沢正子、伊藤熹朔の娘の伊藤弘子。
ほかに桂木洋子、田中晋二、井川邦子、仲谷昇、明石潮、夏川静江、坂本武など。色彩は松竹イーストマンカラー。
<「喜びも悲しみも幾歳月」と言えば>
★喜びも悲しみも幾歳月
1957年に松竹が制作、公開した木下恵介監督の映画。
燈台守の夫婦の戦前から戦後に至る25年間の生活を描き、公開当時、一世を風靡した長編大河ドラマ。
若山彰が歌った同名の主題歌も大ヒットした。
(全国ロケ)
観音崎、御前崎、安乗崎、大王崎(安乗崎の一部ロケ・原作は大王崎)、野寒布岬、三原山、五島列島、瀬戸内海の男木島、女島など日本全国でロケーションを敢行し、ロードムービーの一種としても楽しめる作品である。
主題歌の『喜びも悲しみも幾歳月』(作詞・作曲:木下忠司、歌:若山彰 は後世でも過去のヒット曲として時々紹介されている。
後年、テレビドラマ化も3回されたほか、1986年には木下監督自身により時代の変化を加味したリメイク版新・喜びも悲しみも幾歳月も映画化されている。
★テレビドラマ化1965年版
1965年4月6日〜9月28日、TBS系列で放送。全26回。
監督:今井雄五郎、中新井和夫
キャスト: 四郎:大辻伺郎、きよ子:松本典子、長谷川哲夫、清水まゆみ、青山京子
★テレビドラマ化1972年版
1972年7月10日〜8月25日、TBS系列の花王愛の劇場枠で放送。全35回。
演出:桜井秀雄、菱田義雄
キャスト: 四郎:園井啓介、きよ子:吉行和子、浅野進治郎、小坂一也
★テレビドラマ化1976年版
1976年9月28日〜1977年1月4日、日本テレビ系列で放送。全15回。
演出:野末和夫
キャスト: 四郎:北大路欣也、きよ子:山本陽子、千秋実、結城美栄子、加藤治子他
★木下恵介
(きのした けいすけ、1912年(大正元年)12月5日 - 1998年(平成10年)12月30日)は、日本の映画監督、脚本家。
本名、木下 正吉。正字での表記は「木下 惠介」。
実弟に作曲家の木下忠司、実妹に脚本家の楠田芳子がいる。
(1933年松竹蒲田撮影所入り)
静岡県浜松市にて食料品店を営む父・周吉、母・たまの8人兄弟の4男として生まれる。
浜松工業学校(現浜松工業高等学校)紡績科を卒業後上京。
1933年(昭和8年)松竹蒲田撮影所に入り島津保次郎監督の撮影助手となり、翌1934年(昭和9年)には新たに作られた松竹大船撮影所に移り、島津監督の下助監督となる。
1940年(昭和15年)に徴兵され中国を転戦も翌年、戦傷の為内地送還され帰国。
(『花咲く港』で山中貞雄賞を受賞)
1943年(昭和18年)に監督になり『花咲く港』で山中貞雄賞を受賞し、華々しくデビューした。
同年、黒澤明も監督デビューし終生のライバルとして日本映画界を支えてゆくこととなる。
また、木下組から小林正樹、川頭義郎、松山善三、勅使河原宏、吉田喜重、山田太一等々多数の映画人が巣立っていった。
(『カルメン故郷に帰る』で戦後初の長編カラー映画)
1951年(昭和26年)に『カルメン故郷に帰る』で戦後初の長編カラー映画を発表。
同作は、NHK映画ベストテン第1位、日本映画文化賞を受賞する。
1954年(昭和29年)『二十四の瞳』で、ブルーリボン賞、外国語映画賞、ゴールデングローブ賞など数々の賞を受賞し、 1964年(昭和39年)に松竹を退社し、テレビ界にも進出。「木下恵介アワー」などテレビドラマも製作した。
NO.45「に」のつく元気になった邦画「二十四の瞳」
(文化功労者)
後に木下恵介プロダクション(木下プロダクション→現・ドリマックス・テレビジョン)を設立する。
1976年(昭和51年)『スリランカの愛と別れ』で再び映画監督に、また1979年(昭和54年)には松竹に復帰。
映画、テレビドラマの監督と同時に脚本も数多く手がけている。
1977年(昭和52年)紫綬褒章を受章。1984年(昭和59年)には勲四等旭日小綬章を受章。
1991年(平成3年)に文化功労者に選出される。
1998年12月30日午前3時10分、脳梗塞のため東京都港区の自宅で死去。享年86。
生涯にメガホンをとった映画は全49作である。
死後その功績に対し、エランドール特別賞が贈られた。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
★
木下恵介・映画の世界
NO.76「ゆ」のつく元気になった洋画「夕陽のガンマン」(ユウヒノガンマン)
<元気コメント>
渋柿は嫌いである。
だが、男の人生にとって渋さは一つの終着点であると思う。
いい見本があるとつい意識してしまう。
<あらすじ>
マンゴー(C・イーストウッド)は若い男で激しい性格、物事はすばやく片づけるのが得意だ。
もう一人、大佐(L・V・クリーフ)と呼ばれる男は初老で、身のこなしも上品、冷静に計算してから仕事を片づける。
この二人お互いに相手を知らなかったが、共通の目的はインディオ(G・M・ポロンテ)と呼ばれる凶悪な殺人鬼を探し、殺すことだった
<データ>
「夕陽のガンマン」
(For a Few Dollars More)
製作:1966年 イタリア UA配給
監督:Sergio Leone セルジオ・レオーネ
原作:Sergio Leone セルジオ・レオーネ
Fulvio Morsella フルヴィオ・モルセッラ
出演:Clint Eastwood クリント・イーストウッド (Mango)
Lee Van Cleef リー・ヴァン・クリーフ (Colonel)
Gian Maria Volonte(1) ジャン・マリア・ヴォロンテ (Indio)
Mara Krup (Indio)
Luigi Pistilli ルイジ・ピスティリ (Indio)
参考:セルジオ・レオーネとフルヴィオ・モルセッラのストーリーをルチアーノ・ヴィンセンツォーニとセルジオ・レオーネが脚色、レオーネが「荒野の用心棒」(この時はボブ・ロバートソンというアメリカ名前を使った)についで発表した製作・監督担当の西部アクション。
撮影はマッシモ・ダラマーノ、音楽はエンニオ・モリコーネが担当した。
出演クリント・イーストウッド、リー・ヴァン・クリーフ、ジャン・マリア・ヴォロンテほか。テクニカラー、テクニスコープ。
「荒野の用心棒」:黒澤明の『用心棒』を基にした、マカロニウェスタンの第1作、主演のイーストウッドの出世作でもある傑作。一大ムーブメントに発展するイタリア製西部劇の歴史を語る上でも、レオーネ監督や音楽担当のモリコーネははずせない存在
「用心棒」:娯楽映画の技巧を追及して作り上げられた、三船敏郎主演の傑作時代劇。やくざの2大勢力が縄張り争いに明け暮れる荒廃した宿場町。流れついた凄腕の浪人が、用心棒として雇われる振りをし、逆に両派を同士討ちさせる
<「夕陽のガンマン」と言えば>
★クリント・イーストウッド
(Clint Eastwood, 本名Clinton Eastwood Jr., 1930年5月31日 - )アメリカ合衆国カリフォルニア州、サンフランシスコ生まれの映画俳優、映画監督、政治家。身長187cm。
俳優として数多くの西部劇やアクション映画に出演し、トップスターの地位を確立した。
監督としても『許されざる者』『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー賞作品賞と監督賞を2度ダブル受賞するなど、現代のアメリカ映画界を代表する人物と目されている。
息子として有名なのはジャズ・ミュージシャンのカイル・イーストウッド、娘は女優のアリソン・イーストウッド。彼ら以外に5人の子供がいる。
「許されざる者」:1992年 第65回 アカデミー賞作品賞 1992年 第65回 アカデミー賞監督賞クリント・イーストウッド 1992年 第65回 アカデミー賞助演男優賞ジーン・ハックマン
かつての残忍な悪党が、娼婦の懸けた賞金を得ようと、昔の仲間や若いガンマンと共に最後の追跡の旅に出る。これぞまさに「荒野の用心棒」から始まる彼の西部劇映画史の総決算!そこではイーストウッドが演じ、描き続けていた西部のアウトローが、年老いたガンマンという形で登場。銃の腕もおち、馬も巧みに乗りこなせなくなった彼が、生活のための金稼ぎから転じて、”伝説の男”として甦る姿が身震いするほどスタイリッシュに映し出される。
「ミリオンダラー・ベイビー」:2004年 第77回 アカデミー賞作品賞 2004年 第77回 アカデミー賞監督賞 ピーター・ジャクソン 2004年 第77回 アカデミー賞主演女優賞ヒラリー・スワンク 2004年 第77回 アカデミー賞助演男優賞モーガン・フリーマン
古びれたボクシングジムを経営する老トレーナー・フランキーと、彼を慕う女ボクサー・マギーの痛切な人生を描く
(生い立ちとデビュー後の不遇)
父・クリント・イーストウッド・シニアと母・モーガン・イーストウッドの間に生まれる。
スコットランド、アイルランド、ドイツ、イングランドの4か国の血をひいている。
家系はメイフラワー号の乗員で港町プリマスを統治したウィリアム・ブラッドフォードを祖とする名家であるが、幼い頃は世界恐慌の煽りを受け生活は苦しかった。
オークランド・テクニカル・ハイスクール卒業後、朝鮮戦争の最中であった1951年に陸軍に召集され入隊。
2年後の1953年に除隊後サウスカリフォルニアに移住。
アルバイトの傍らロサンゼルス・シティ・カレッジの演劇コースを専攻する。
1950年代初めにユニバーサル映画と契約を結ぶが、デビュー当初は『半魚人の逆襲』『世紀の怪物/タランチュラの逆襲』といったB級映画の端役しか与えられず不遇の時代を過ごす。
(『ローハイド』と2人の師との出逢い)
1959年からCBSで放映されたテレビ西部劇『ローハイド』でロディという名のカウボーイを演じる。
同作品は約7年間に亘り150話近く製作される人気シリーズとなり、イーストウッドの知名度と人気は世界的に上昇した。
1964年にはイタリアのセルジオ・レオーネ監督に招かれ、マカロニ・ウェスタンの嚆矢的作品『荒野の用心棒』に出演。
その後『ローハイド』の撮影の合間を縫って『夕陽のガンマン』、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』と都合3作のレオーネ作品に出演。
イーストウッドはレオーネを師と仰ぎ、レオーネの逝去まで親交を続けた。
当時のアメリカにおけるイーストウッドの位置付けは「テレビドラマのカウボーイ役者」であり、映画俳優としての評価はヨーロッパが先行し逆輸入されたことになる。
『マンハッタン無宿』で出逢ったドン・シーゲルと再びタッグを組んだ『ダーティハリー』でイーストウッドは型破りな刑事ハリー・キャラハンを演じた。
これはシーゲル作品として過去最大のヒットとなり、イーストウッドも人気アクション・スターとしての地位を不動にした。
現在においても俳優としてのイーストウッドの代表作として真っ先に挙げられるのがこの作品である。シリーズは「5」まで制作された。
「ローハイド」:クリント・イーストウッド主演の人気TVシリーズ。南北戦争後の1870年代のアメリカ西部を舞台にテキサス州のサンアントニオからミズーリ州のセタリアまで3000頭の牛を運ぶロングドライブたちの活躍を描く
「続・夕陽のガンマン/地獄の決斗」:南北戦争の混乱の中、巷で話題になっていた20万ドルを盗み隠した男の死に際に遭遇したジョーはただ一人その隠し場所を聞くことに
「マンハッタン無宿」:アリゾナの保安官補・クーガンが、凶悪犯の身柄引き渡しのためにニューヨークへ来たが、犯人を逃してしまう・・・
「ダーティハリー」:S&W44マグナムを愛用し、犯罪者への執念と非情なやり方がトレードマークの、サンフランシスコ警察殺人課の刑事ハリー・キャラハン。そんな彼を、仲間たちは“ダーティハリー”と呼んでいた。
(監督業の成功)
1968年に映画制作会社マルパソ・カンパニーを設立。1971年に『恐怖のメロディ』で初監督。俳優業の傍ら『荒野のストレンジャー』『アウトロー』などの作品を立て続けに発表。監督業に進出した他のハリウッド・スターと違い、所謂「大作」や賞レースに関わる作品への出演はせず、自らのプロダクションで製作した小規模ともB級とも呼べる作品でのみ主演し、監督業と俳優業を両立しながら地位を確立した。1987年の第45回ゴールデン・グローブ賞において、生涯の功績を称揚するセシル・B・デミル賞を受賞。
1992年、師であるセルジオ・レオーネとドン・シーゲルに捧げた“最後の西部劇”、『許されざる者』を監督兼主演で制作。第65回アカデミー賞監督賞、作品賞を受賞、第50回ゴールデン・グローブ賞監督賞を受賞した。この頃から『マディソン郡の橋』『ミスティック・リバー』といった文芸性の高い作品も手がけている。同2作品ではアカデミー主演男優賞にノミネートされた。
2004年の『ミリオンダラー・ベイビー』で2度目のアカデミー作品賞/アカデミー監督賞のダブル受賞を果たす。74歳という、最高齢での受賞記録を樹立したバイタリティは、アクション映画で培われたものであろうと驚嘆の元に迎えられた。「単に監督もできる俳優」ではなく、「アクション映画から文芸映画まで幅広くこなせる、優れた監督兼俳優」という評価を確立した。
2007年1月、『硫黄島からの手紙』でゴールデン・グローブ賞最優秀外国語映画賞を受賞。
2007年2月17日、監督としての功績が認められ、仏シラク大統領からレジオンドヌール勲章を授与された。
「恐怖のメロディ」:地方局のDJの前に、いつも“ミスティ”をリクエストしてくる女性が現れた。出来心から一夜を共にして以来、女は執拗につきまとい…
(私生活その他人物像)
古くからジャズに対する造詣が深く、『ミスティック・リバー』、『ミリオンダラー・ベイビー』『父親たちの星条旗』では、音楽担当のクレジットにもその名を連ねている。
政治活動への参加も積極的であり、1986年から約2年間カリフォルニア州カーメル市(en:Carmel-by-the-Sea)の市長を務めた。
また、カリフォルニア州公認の共和党員でありながらリバタリアニズムを主張。
自ら資金を調達し第37代カリフォルニア州知事グレイ・デイヴィスへ退陣を迫る投票を行い、民主的な政治家の政治への参加を求めるテレビCMを製作した。
2003年5月には、当時開戦したばかりのイラク戦争と、開戦を敢行した国家の双方を「極めて重大な過ちを犯した」と批判。
同じく政治論争に積極的で『ミスティック・リバー』で主演に起用したショーン・ペンがバグダッドに向かうのを説得して止めた。
他にも、同性結婚に対して臆することなく持論を展開している。
1997年にファッションブランド「テハマ」(ネイティブ・インディアンの言語で「大自然」の意)を共同経営者名義で設立。
同名のゴルフコースも所有している。
彼が出演した映画作品のチラシは映画ファンの間で、往年の大スターであるスティーブ・マックイーンと双璧を成すほど人気が高く、『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』『華やかな魔女たち』『奴らを高く吊るせ!』といった作品の初版チラシに至っては1枚で数十万円単位まで価格が高騰しているものも存在する。
イーストウッドは映画監督として2年連続でアカデミー賞の助演男優賞(第76回(2003年)での『ミスティック・リバー』におけるティム・ロビンスと第77回(2004年)での『ミリオンダラー・ベイビー』におけるモーガン・フリーマン)を出している。
「Clint Eastwood」という名前はアナグラムで「Old West Action」となり、「懐かしい西部劇」と訳すことができる。
数度の離婚歴があり、元妻から慰謝料請求の訴訟を起こされ泥沼化したり、DVのことについて書かれた暴露本を出されたことがある。
子供は初婚の際に1男1女、3度目の再婚の際に1人おり、他に不倫などで4人の子供がおり、計7人いるとされている。
4度目の結婚の際に妻が初婚の時の娘と同年代だということが判り、話題になった。 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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