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NO.83「る」のつく元気になった邦画「ルパン三世 カリオストロの城」(ルパンサンセイ カリオストロノシロ)
<元気コメント>
悪漢を賞賛するわけではないが、この痛快さはなにものにも代えがたい。
<あらすじ>
人口三千五百、世界一ちっぽけなカリオストロ公国の田舎道をボロ車でドライブしていたルパンと次元はクラリスという美女を助けた。
彼女はカリオストロ公国・大公家に残された最後の娘で、カリオストロ伯爵は彼女を強制的に妻に迎え、公国の権力をひとり占めにしようと狙っていた・・・
<データ>
「ルパン三世カリオストロの城」
製作:1979年 東宝
監督:宮崎駿 ミヤザキハヤオ
原作:モンキー・パンチ「ルパン三世」
出演:山田康雄 ヤマダヤスオ (ルパン三世)
増山江威子 マスヤマエイコ (峰不二子)
小林清志 コバヤシキヨシ (次元大介)
井上真樹夫 イノウエマキオ (石川五右エ門)
納谷悟朗 ナヤゴロウ (銭形警部)
解説:ヨーロッパの小国カリオストロ公国の秘密を暴くルパン三世の活躍を描く劇場用シリーズ第二作目。
脚本は宮崎駿と山崎晴哉の共同執筆、監督は宮崎駿、作画監督は大塚康生が担当。
<「ルパン三世 」と言えば>
★ルパン三世(ルパンさんせい、英語題名Lupin the 3rd)
モンキー・パンチ原作のナンセンス・コメディ・アクション漫画である。
また主人公の名前である。
テレビアニメ化により人気に火がつき、以後たびたびアニメ化や映画化される。
2006年現在まで続編(TVスペシャル)が製作されている。
劇場映画ならびにTVスペシャルの視聴率は常に20%前後の高い数字を記録している。
その人気ゆえ、様々なメディアで国民的アニメと評されている。
(作品例)
「ルパン三世 ルパンVS複製人間(クローン)」:劇場用作品第1弾。峰不二子にねだられ、エジプトのピラミッドから「賢者の石」という石を盗み出したルパン。不二子はその石の入手をマモーと名乗る不気味な男から依頼されていた。だが、ルパンが渡した石は彼がすり替えた偽物だった。マモーに捕らえられたルパンは、賢者の石が不老不死の力を得るために必要な秘宝だと知る。果たしてマモーの正体とは?
「ルパン三世 セブンデイズ・ラプソディ」:ニューヨークの競馬売上金の強奪計画を立てたルパン。シミュレーションは完璧、前祝だと街へ繰り出したルパンと次元だが、ルパンは怪しい男たちに追われている少女ミシェルを助ける。そして悪事を働いている父親からダイヤを奪い、悪事を阻止してほしいという依頼を受ける。ルパンは6日間、ミシェルのボディガードをすることにしたが…。
★作品概要
1967年、『週刊Weekly漫画アクション』にて連載開始。全94話。
Mort Druckerの影響を色濃く残す、ひょろりとした線で描かれる長身の登場人物。
最後の最後まで読者の裏をかくストーリー展開(例外あり)。
両者があいまって本作独自の作風を醸成している。
残念なことに、アニメのキャラクターおよび作風が定着した現在ではあまり読まれていない。
★特色
本作はナンセンス、コメディー、スラップスティックの要素を多分に含んだアクション漫画である。
主人公・ルパン三世は、モーリス・ルブランの小説『怪盗ルパン』に着想を得て造形された(もっとも、本作との関連は薄い)。
物語は、彼の悪漢としての活動を中心に描かれる。
なお、「アルセーヌ・ルパン」の孫の設定はアニメ独自のものである。
★作品化に至る経緯とその後の反響
1968年、東宝の劇場アニメ映画を目的としてパイロットフィルムの企画会議がAプロダクションで発足。
翌1969年にパイロットフィルムが製作されるが未公開に終わる。
また、脚本『ルパン三世 三代目襲名(北原一)』、『ルパン三世─華麗なる犯罪 絢爛なる狂気!─(大和屋竺)』も未使用に終わる。
1971年からTVアニメ『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』が放送開始。
当初は大人向けの作品を意向していたが、当時の視聴者の関心を集めることができず、対象年齢を下げるという路線変更の後に打ち切られた。
放映終了後、放映料が安かったこともあって全国で再放送が繰り返された結果、そのたびに人気が高まり、5年後に『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』が製作され、この第2シリーズが現在までに及ぶルパン三世のキャラクターと人気を確立した。
★TVシリーズ
1971年〜1972年 『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』
1977年〜1980年 『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』
1984年〜1985年 『ルパン三世 PartIII』
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
NO.82「り」のつく元気になった洋画「略奪された七人の花嫁」(リャクダツサレタシチニンノハナヨメ)
<元気コメント>
女性に対する思いやりの気持ちが、
開墾しながら、どのように一家を
<あらすじ>
1850年のお話。アダム・ポンティピー(ハワード・キール)はオレゴンの山奥から町へ出てきた。
そして首尾よく料理店の女ミリー(ジェーン・パウエル)を口説き落として山の農場へ連れ帰った。
アダムのうまい口説を本気にして来たミリーは、総勢7名の荒々しいポンティピー兄弟に会い、散らかし放題の家の中を見てすっかり幻滅の悲哀を感じてしまったが・・・
<データ>
「略奪された七人の花嫁」(Seven
Briges for Seven Brothers)
製作:1954年 アメリカ MGM映画会社配給
監督:Stanley Donen スタンリー・ドーネン
原作:Stephen Vincent Benet スティーブン・ヴィンセント・ベネット
出演:Howard Keel ハワード・キール (Adam)、Jeff Richards ジェフ・リチャーズ (Benjamin)、Russ Tamblyn ラス・タンブリン (Gideon)、Tommy Rall トミー・ロール (Frank) 、Marc Platt マーク・プラット (Daniel)
解説:「君知るや南の国」のジャック・カミングスが1954年に製作したシネマスコープ色彩ミュージカル。
ピュリッツァ賞作家スティーブン・ヴィンセント・ベネットの原作を「ローズ・マリイ(1936)」のコンビ、アルバート・ハケットとフランセス・グッドリッチに「水着の女王」のドロシー・キングスリーが加って脚色、「踊る大紐育」のスタンリー・ドーネンが監督した。
アンスコカラーの撮影監督は「第8ジェット戦闘機隊」のジョージ・フォルシー、音楽監督はアドルフ・ドイッチュである。
出演者は、「ローズ・マリー(1954)」のハワード・キール、「スイングの少女」のジェーン・パウエル、ジェフ・リチャーズ、ジュリー・ニューメイヤー、ラス・タンブリン、ナンシー・キルガス、トミー・ロール、ヴァージニア・ギブソンなど (goo映画案内より)
「踊る大紐育」:ジーン・ケリー、フランク・シナトラの代表作。24時間の休憩をもらった水兵が、ニューヨーク見物をして、それぞれ彼女を作って、また勤務に戻っていくという物語。佳曲に溢れたスピーディな展開で、まるで飽きさせない傑作ミュージカル
<「略奪された七人の花嫁」と言えば>
★ミュージカル映画
ミュージカル映画(英:Musical film)とは、映画のジャンルの一つで、物語に混在して俳優が歌を歌う形式を指す。
一般的に歌によって筋を発展させたり、映画上の配役を特徴付けたりする。
ミュージカル映画のサブジャンルはミュージカルコメディであり、通常の音楽、ダンス、筋書きに加えて、強いユーモアの要素を持つ。
(最初のトーキー、アル・ジョルスン主演の『ジャズ・シンガー』)
ミュージカル映画は、1920年代末期にトーキーが発明され、映画に音楽をあわせることが可能となったことを期に出現した。
最初のトーキーとされるアル・ジョルスン主演の『ジャズ・シンガー』(1927) からして、音楽映画である。
当初は舞台作品をそのまま映画にしたものが多かったが、天才的な振付師であるバスビー・バークレイの登場以後、映画ならではの演出・特撮・カット割りを駆使した、舞台とは異なったアプローチが試みられるようになり、独自の発達を遂げた。
「ジャズ・シンガー」:27年に公開された、トーキー映画第1作として名高い感動ドラマをリメイク。リチャード・フライシャー監督による、一人の青年がジョービジネス界で成功するまでの姿を描いたドラマ。ニール・ダイアモンド、ローレンス・オリビエほか出演。
(フレッド・アステアやジーン・ケリーなど)
1930年代末期以降、テクニカラーの導入、高品質の録音再生システムの導入など、技術革新の恩恵をいち早く受ける分野ともなった。
1940〜1950年代はその最盛期で、特にMGM社は、フレッド・アステアやジーン・ケリーなどの優れたミュージカル俳優主演の豪奢な作品で一世を風靡した。
この時期はいわゆるティン・パン・アレイの作詞家・作曲家が最後の輝きを見せた時期でもあり、現在までスタンダード・ナンバーとして愛唱されるミュージカル映画の曲も数多い。
「雨に唄えば」 (1952) :1952年 第10回 ゴールデン・グローブ賞主演男優賞<コメディ/ミュージカル部門>ドナルド・オコナー ハリウッドの人気スター、ドンとリーナは10本を超える作品に共演する名コンビ。世間も彼らの結婚は間近と思っていた。そんなある夜、取り囲むファンから逃げたドンはコーラス・ガールのキャシーと知り合う。やがてドンとリーナの新作の撮影が開始された。ところが途中から映画はトーキーに変更。ミュージカル化して、リーナの吹き替えをキャシーが務めることになるが…。ジーン・ケリーがどしゃ降りの雨の中で踊るシーンがあまりにも有名なMGMミュージカルの大傑作!
(『ウエストサイド物語』)
舞台作品の世界同様、『ウエストサイド物語』以降は社会性を持った作品が出現するようになる。
しかしミュージカル映画は、1960年代以降製作に多額の費用を要することから、徐々に退潮していく。
俳優・監督・その他スタッフに人を得なくなり、質的に優れた作品は散発的に作られるのみとなった。
「ウエストサイド物語」:1961年 第34回 アカデミー賞作品賞、1961年 第34回 アカデミー賞監督賞ロバート・ワイズ,ジェローム・ロビンズ、1961年 第34回 アカデミー賞助演男優賞ジョージ・チャキリス、1961年 第34回 アカデミー賞助演女優賞リタ・モレノ 対立するジェット団とシャーク団。それぞれのグループに属していたトニーとマリアは許されざる恋に落ちてしまうのだが…。
(製作本数から現在はインド)
ボリウッドを中心として映画製作が年間800本行なわれているインドにおいては、その作品の大多数がミュージカル映画である。
ミュージカル映画の本場は製作本数から鑑みると現在はインドである。
「ムトゥ 踊るマハラジャ」 (1995): 一大ブームとなった痛快ミュージカルムービー。大地主・ラージャーに仕える馬車使い兼用心棒・ムトゥ。ある日、ラージャーが劇団女優・ランガに一目惚れするが、彼女はムトゥに恋心を抱き…
(代表的なミュージカル映画の一覧)
(舞台作品の映画化は「stage = S」で示す。括弧内は舞台の初演年度)
1930年代
四十二番街 (1933) S (1980)
ゴールド・ディガース (1933)
コンチネンタル (1934) S (1932)
トップ・ハット (1935)
ロバータ (1935) S
浮かれ姫君 (1935) S (1910)
艦隊を追って (1936)
有頂天時代 (1936)
踊るアメリカ艦隊 (1936)
踊らん哉 (1937)
踊る騎士 (1937)
百万弗大放送 (1938)
オズの魔法使い (1939)
1940年代
ヤンキー・ドゥードル・ダンディ (1942)
スイング・ホテル (1942)
若草の頃 (1944)
我が道を往く(ゴーイング・マイ・ウエイ) (1944)
ステート・フェア (1945)
錨を上げて (1945)
ジーグフェルド・フォーリーズ (1946)
ハーヴェイ・ガールズ (1946)
腰抜け二挺拳銃 (1948)
イースター・パレード (1948)
踊る大紐育 (1949) S (1944)
1950年代
アニーよ銃をとれ (1950) S (1946)
巴里のアメリカ人 (1951)
ショウ・ボート (1951) S (1927)
恋愛準決勝戦 (1951)
雨に唄えば (1952)
バンド・ワゴン (1953)
紳士は金髪がお好き (1953) S (1949)
カルメン (1954) S (1943)
ブリガドーン (1954) S (1947)
ショウほど素敵な商売はない (1954)
略奪された七人の花嫁 (1954)
オクラホマ! (1955) S (1942)
野郎どもと女たち (1955) S (1950)
上流社会 (1956)
王様と私 (1956) S (1951)
絹の靴下 (1957)
パリの恋人 (1957)
パジャマ・ゲーム (1957) S (1954)
南太平洋(1958) S (1949)
くたばれ!ヤンキース (1958) S (1955)
恋の手ほどき (1958)
1960年代
ウエスト・サイド物語 (1961) S (1957)
ジプシー (1962) S (1959)
ジャンボ (1962) S (1935)
シェルブールの雨傘 (1964)
マイ・フェア・レディ (1964) S (1956)
メリー・ポピンズ (1964)
サウンド・オブ・ミュージック (1965) S (1959)
オリバー! (1968) S (1960)
スイート・チャリティ (1968) S (1966)
チキ・チキ・バン・バン (1968)
ハロー・ドーリー! (1969) S (1964)
1970年代
屋根の上のバイオリン弾き (1971) S (1964)
キャバレー (1972) S (1966)
ジーザス・クライスト・スーパースター (1973) S (1971)
サタデー・ナイト・フィーバー (1977)
1980年代
ブルースブラザーズ (1980)
アニー (1982) S (1977)
星くず兄弟の伝説 (1985) 手塚真監督作品
1990年代
ムトゥ 踊るマハラジャ (1995)
サウスパーク (1999)
2000年代
ダンサー・イン・ザ・ダーク Dancer in the Dark (2000)
ムーラン・ルージュ Moulin Rouge!(2001)
シカゴ Chicago (2002) S (1975)
オペラ座の怪人 The Phantom of the Opera (2004) S (1986)
プロデューサーズ (2005)The Producers S (2001)
RENT (2005) S (1996)
ドリームガールズ Dream girls (2006) S (1981) (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
NO.81「り」のつく元気になった邦画「力道山の鉄腕巨人」(リキドウザンノテツワンキョジン)
<元気コメント>
最後の空手チョップによる反撃を見たさに、テレビのある家へ何度押しかけたことでしょう。
自分の家にテレビがきた時も、プロレス=力道山が見られるという喜びがあふれていました。
夢が現実化されると元気が出ます。
<あらすじ>
プロレスリングの王者、力道山は世代を超えたヒーローであった。
小児マヒで立ち上がる事のできない少年、保の父兵六は、保を元気づけようと、道場にサインをもらいに訪ねた。
事情を聞いた力道山は保の自宅に見舞いに訪れる・・・
<データ>
「力道山の鉄腕巨人」
製作:1954年
監督:並木鏡太郎
出演:力道山 安西郷子 松島トモ子 柳屋金語楼
<「力道山」と言えば>
★力道山(りきどうざん、1924年11月14日 - 1963年12月15日)
第二次世界大戦終了後に日本のプロレス界の礎を築いたプロレスラー。
大相撲の力士出身。日本プロレス界の父と呼ばれる。
身長176cm(プロレス時代の公称身長は180cm)、体重116kg。朝鮮在住時代に既に結婚し、子供もいたため公称生年月日より早く生まれていると思われる。
(1950年相撲廃業、1952年日本プロレス協会を設立)
出身は戦前の朝鮮半島(現在の北朝鮮統治範囲)。
後に長崎県大村市の農家・百田家の養子となった。
民族名は金 信洛(キム・シルラク)。戸籍名は百田 光浩(ももた みつひろ)。
1940年に初土俵、1946年に入幕し、1949年に関脇に昇進するが、1950年に自ら髷(まげ)を切り廃業、1951年にプロレスに転向する。
1952年に渡米し、翌年帰国して日本プロレス協会を設立する。
(WWA世界ヘビー級王座を獲得)
シャープ兄弟をはじめとする外人レスラーを空手チョップでばったばったとなぎ倒す痛快さで、1953年にテレビ放送が開始された事も重なり日本中のヒーローとなる。その後柔道出身の木村政彦、山口利夫を倒して日本のプロレス界を統一した。1954年12月の木村との世紀の一戦が八百長であることが明らかになり、それ以後三大紙やNHK等の一般メディアの取材対象から外れることになる。
大相撲出身の力道山が天下を取ったことから相撲取りのプロレス界入りが増えた。
日本のプロレス界になにかと相撲の影響が残っているのはこれに由来する。
また後にはフレッド・ブラッシーを破ってWWA世界ヘビー級王座を獲得した。
1974年にジャイアント馬場が獲得したNWA世界ヘビーとは違いカリフォルニア近辺だけのローカルなベルトではあったが、ともかく日本人でプロレスの世界ヘビー級王者になったのは力道山が初めてである。
ルー・テーズやパット・オコーナーのようなストロングタイプともジェス・オルテガやフレッド・ブラッシーのような悪役・怪物タイプとも名勝負を残しているが、後者の方が手が合ったようである。
(歴代視聴率4位)
1963年5月24日東京体育館で行われたWWA世界選手権・ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率で実に64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。現代に例えると2002年の日韓サッカーW杯の日本―ロシア戦の66.1%に匹敵するものであり、いかに力道山の存在が絶大であったかがうかがえる。
1963年12月8日午後10時30分に、遊興中の赤坂のキャバレー「ニューラテンクォーター」で、暴力団住吉一家村田勝志に、登山ナイフで腹部を刺されて山王病院に入院。その傷が元で12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。享年39。
傷そのものは大したことはなかったが、再手術の際に麻酔を担当した外科医が気管内挿管に失敗したことで窒息し、死に至る(担当医が亡くなる直前に著書で告白したことから発覚した)。
この時の看病をしていたのはアントニオ猪木である。
「ルー・テーズ対力道山
世界選手権争奪戦」
(「人間ポンプ」)
自身を含めたプロレスラーの強靱な肉体に過信があったことは事実(客人の前で、馬場に度数の高い洋酒を一気飲みさせたり、猪木を走行中の車から突き落としたりして、強靱な肉体があるからプロレスラーは「ケロっ」としているというアピールを好んで行った)。
梶原一騎原作の劇画「プロレススーパースター列伝」等で、手術後に飲酒をし、寿司を喰ったために腸閉塞を起こしたという話がまことしやかに出回ったこともあるが、デマである。
性格的には粗暴で、感情の起伏が激しく、機嫌が良いときはボーイに1万円(※当時の1万円は相当な額である)のチップを渡すこともあったが、機嫌が悪いと飲食店での暴力沙汰は日常茶飯事であり、そのつど金で表ざたになるのを防いだ(泉麻人の著書「B級ニュース図鑑」によると一部の新聞紙上には「力道山また暴れる」と報道されているようだ)。
力道山自身がキャバレーで「俺は強いんだ!」と酔って大暴れし、力でかなわないので困ったキャバレーのボーイ(ボーイではなく暴力団系の「大日本興業」の構成員)がナイフで刺したが、力道山はそのナイフをつかんで「こんなナイフで俺が死ぬかよ!」とさらに自分で腹を刺し続けたという説もある。
このような粗暴な行為に関しては、本人の生来の激しやすい性格も一因ではあるが、晩年には肉体的な衰えをカバーするために試合前に興奮剤を服用しており、試合後にそのまま飲み屋に出掛けてトラブルを引き起こしたという証言もある(ロバート・ホワイティング「東京アンダーワールド」など)。
また、相手を威嚇するためにガラスのコップをバリバリと噛み砕いて飲み込む「人間ポンプ」という芸を持っており、ごく機嫌のいい時か悪い時に披露するという。
このように、力道山は素行の面でいろいろと問題はあったが、日本のプロレス界の礎を築いた人物であることは間違いない(その人気と功績から、広辞苑にも名前が載っている)。力道山の死後プロレス界を支えた両巨頭であるジャイアント馬場、アントニオ猪木も彼の弟子であった。力道山は、プロ野球出身で知名度もあり、肉体的に恵まれていた馬場をスター候補としてデビュー当時より特別扱いしていたが、猪木への対応は「靴べらで顔を殴る」「飼い犬を番犬として教育する際の実験台にする」など極めて冷酷なものであったと言われている(猪木自身が一部語り、古いスポーツ紙の記者もそれを書いている)。
(事業家としても成功)
その一方で、弟子の中で、力道山が本心から一番可愛がっていたのは馬場でも猪木でもなく、同じ朝鮮人の大木金太郎であったともいう。
プロレスラーの百田義浩(故人・元プロレスリング・ノア取締役)、百田光雄(現役・プロレスリング・ノア副社長)は実息。
当時の厳しい差別などもあってか自らが朝鮮人であることは生前は周囲に隠して生きており、力道山主演映画「力道山物語」でも「長崎県の貧しい農家で生まれ育った」という設定になっている。
亡くなる10ヶ月前に結婚した田中敬子(元日本航空スチュワーデス。死後、百田姓から抜けた)はそのことを知っていたが、実息であった二人の息子は父である力道山の死後に知ったということである。
事業家としても成功し、赤坂に「リキマンション」と名づけたマンションの奔りである高級賃貸住宅を建てた。
渋谷には「リキ・スポーツパレス」という地上9階建てのプロレスの常設会場を作り、その中には「リキトルコ」やビリヤード場、ボウリング場などを併設した「リキレストラン」を建設した。
また日本人の友人と共同で箱根にゴルフ場を経営する計画があり設計までに至っていたが、上記の急死によりこの事業は消滅した。
死去した日と同日に4代目の鈴々舎馬風が中風で死去したがスポーツ紙の一面が力道山の死で埋め尽くされたため一段のベタ記事扱いとなった。
しかしそれをマクラにした落語家はいなかったという。
公にはしていなかったが朝鮮民主主義人民共和国の金日成主席と親交があり、1962年3月13日に贈呈したとされるベンツが妙香(ミョヒャン)山の国際親善展覧館に展示されている。
「RIKI力道山、世界を相手にビジネスした男」
(力士として、大関取りがかかった場所前の突然の廃業)
番付では長崎県大村町の出身となっている。
幕内通算11場所、75勝54敗15休(15休は引退廃業の場所の全休)。
入幕2場所目の1947年6月場所、その場所から始まった優勝決定戦に進出している。
廃業直前の2場所の成績は小結で10勝5敗、関脇で8勝7敗。
現在でいえば当然大関取りがかかった場所前の突然の廃業については、相撲界側に残る話では師匠二所ノ関との部屋の運営をめぐっての対立があったとされているが、力道山側の主張とは食い違い、現在となってははっきりしない。
一時期角界復帰の話も持ち上がり、実業界の有力者の仲介もあって決まりかかったが、力士会が反対して実現しなかった。
なお同時期に元大関増位山の三保ヶ関も現役復帰の意向をしめしており、これも含めての反対だったので、力士会が特に力道山個人の復帰を嫌ったという話ではない。
相撲界側で比較的力道山に好意的な証言者の一人として、二所一門の弟弟子だった横綱若乃花幹士 (初代)がいる。
その著作などを読むと、気性は荒くしごきはきついが、稽古熱心なものには徹底的に目をかける兄弟子像が浮かびあがる。
しかし、その若乃花にとっても「力道関」はもっとも恐ろしい兄弟子だったらしい。若乃花が夜遊びのために部屋を抜け出した際、オートバイを駆って追いかけ強引に連れ戻したのは、若乃花が脱走したと勘違いした力道山であった。ちなみに、プロレス時代の力道山が常に黒いタイツを着用し、素足を見せなかったのは、大相撲時代に、若乃花がしごきに耐えかね、力道山の足に噛み付いた時の歯形が残っていたからとも言われている。
珍記録としては、3場所連続で同じ相手(前田山)から不戦勝をあげるなどした。
また、最後の優勝旗手になった力士でもある。
(プロレス修行、ハロルド坂田との出会い)
二所ノ関部屋を自ら髷を切って引退した力道山は、横綱東富士の後援会長、新田建設(新田組)社長の新田新作の下で働く。
新田は、力道山の相撲界復帰のために尽力するが、結局実現しなかった。
力道山は同じころ、ハロルド坂田(トシ東郷)に出会う。
ハロルド坂田はハワイ生まれの日系二世で、ロンドンオリンピック重量挙げのアメリカ代表で銀メダリストだった。
当時のハロルドはハワイの英雄として売り出し中のプロレスラーで、日本でのプロレス興行のプロモートを模索している途中だった。
ハロルド坂田に誘われて、力道山は1951年10月28日、メモリアルホール(旧国技館)で、統一前のNWAの元世界チャンピオン、ボビー・ブランズとエキジビジョンマッチを行い引き分ける。
力道山の素質に惚れたボビー・ブランズは、ハワイ興行に力道山を誘うが、新田社長への恩義を感じる力道山はハワイ行きを打ち明けられず、日新プロダクションの永田貞雄に相談する。
永田は、横綱千代の山の贔屓筋で、浪曲な歌謡曲などの興行を手がけている人物であった。
永田が新田を説得し、力道山はハワイへ行くことになる。
1952年2月17日、ハワイ・ホノルルのキングストリートにあるシビック・オーデトリアムで、力道山は記念すべき海外遠征初試合を行う。
相手はチーフ・リトル・ウルフというインディアンレスラーで、勝利を収める。
ハワイでのプロレス興行は黄金時代で、日系人1世、2世の観客の間で力道山人気は爆発した。
このとき力道山をハワイでトレーニングしたのは、後の日本プロレスでレフェリーとなる、沖識名であった。
沖の助言もあり、黒のロングタイツに空手チョップというスタイルはハワイで作られた。
その後、1952年6月10日に、アメリカ本土のサンフランシスコへ乗り込む。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
「必殺の空手チョップ
今蘇る!力道山 〜伝説の格闘王〜」
(タイトル履歴)
WWA世界ヘビー級王座
アジアタッグ王座
NO.80「ら」のつく元気になった洋画
「ライムライト」
<元気コメント>
「人生は素晴らしい。大切なのは勇気と想像力だ」(カルヴェロのセリフより)
<あらすじ>
第一次大戦前、ロンドンでの物語である。
カルヴェロ(チャールズ・チャップリン)はミュージック・ホールの道化師で、かつてはイギリス最大の芸風を謳われたが、中年をすぎた今はすっかり落ちぶれてしまった。
ある日、彼が酔ってアパートに帰ってみると、美しい女が自殺を企てて意識不明になって倒れていた・・・
<データ>
「ライムライト」(Limelight)
製作:1952年 アメリカ
監督:Charles Chaplin チャールズ・チャップリン
原作:Charles Chaplin チャールズ・チャップリン
出演:Charles Chaplin チャールズ・チャップリン (Calvero)
Claire Bloom クレア・ブルーム (Thereza)
Nigel Bruce ナイジェル・ブルース (Postant)
Buster Keaton バスター・キートン (Calvero's Partner)
Sydney Chaplin シドニー・チャップリン (Neville)
解説:「チャップリンの殺人狂時代」に次ぐチャールズ・チャップリンの新作(1952年作品)で、いつもの通り製作・監督・脚本・作曲・主演それにバレエの振り付けもチャップリン自身が受け持っている。
撮影はベテラン、カール・ストラッス、編曲はレイ・ラッシュの担当。
チャップリンをめぐる出演者は、彼がこの作品のために探し出した英国生まれの新人クレア・ブルーム、チャップリンの息子チャールズ・チャップリン・ジュニアとシドニー・チャップリン、往年の喜劇俳優バスター・キートン、「レベッカ」のナイジェル・ブルースらで、バレエ場面にはアンドレ・エグレフスキーとメリッサ・ハイドンが特別出演している。(goo映画案内より)
「チャップリンの殺人狂時代」
:チャールズ・チャップリンが監督・主演のブラックユーモアあふれる一作。大恐慌のために失業し、妻子のために犯罪に手を染めようとする銀行員の姿を描く。
「レベッカ」
:J・フォンテイン演じるヒロインが、リビエラの旅行で英国紳士マキシムと出会い、彼の後妻としてイギリスの屋敷にやってくる。だがその屋敷には、マキシムの死んだ前妻レベッカの、見えない影が全てを支配していた…。ヒッチコックの渡米第一作となったゴシック・ロマン。
<「ライムライト」と言えば>
★ライムライト?
( 英語:lime light )は照明器具の一種。
電灯が発明され、普及する前に舞台照明に用いられた。
別称はカルシウムライト、石灰灯、灰光灯。
ライムライトのライムとは石灰を意味する英語の lime のことであり、石灰を棒状、あるいは球形に成形したものに、酸素と水素を別々の管から同時に噴出させて点火した高温の火炎(酸水素炎)を吹き付け、白熱した石灰から発した光をレンズで集光して照明に用いる。
酸水素炎は2800℃に達する高温の火炎であるが、それ自体は青白い弱い光しか発しない。
この火炎の中に石灰を置くと、高温になった石灰は熱放射を起こし、広いスペクトル域の可視光を強烈な白色光として発する
映画タイトルのライムライトとは、名声の代名詞でもある。
★チャールズ・チャップリン?チャーリー・チャップリン?
チャーリー・チャップリン(Sir Charles "Charlie" Spencer Chaplin, 1889年4月16日 - 1977年12月25日)はハリウッド映画初期の俳優、脚本家、そして映画監督である。
本名チャールズ・スペンサー・チャップリン。
映画の黎明期に数々の作品を作り上げ、「喜劇王」の異名をもつ。
愛称は"チャーリー"。
各種メディアを通じ、現在においても彼の姿や作品にふれることは容易である。
また、バスター・キートンとハロルド・ロイドと並び、「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。
(幼年期)
イギリス・ロンドン出身。
両親はミュージック・ホールの芸人だったが、1歳のときに離婚。
その11年後、父チャールズ・チャップリンはアルコール中毒によって死去し、母ハンナ・ヒルも精神病にかかる。
彼自身も幼いころからミュージック・ホールでパントマイム劇などを演じて、一家の家計を支える。
(ハリウッド)
その後、1908年にカーノー劇団に入り頭角を現すようになる。
1913年、カーノー劇団の2度目のアメリカ公演の際に、『キーストン・コップス』シリーズで有名な映画監督マック・セネットの目にかない、映画俳優としてデビューする。
後に人気を二分することになるロスコー・アーバックルと共演するなどした。
1919年には、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、D・W・グリフィスとともに配給会社ユナイテッド・アーティスツを設立し、1918年に建設されたチャップリン撮影所と合わせて、無干渉で映画制作が出来る環境を手に入れた。
(役柄)
彼の最もよく知られている役柄は放浪紳士である。
窮屈な上着に、ぶかぶかのズボンと大きすぎる靴(どた靴)、山高帽に竹のステッキといったいでたちのちょび髭の人物で、アヒルのように足を大きく開いて、がにまたで歩く特徴をもつ。
浮浪者だが、優雅な物腰と紳士としての威厳をもつ。
この役柄は1914年の2作目『ヴェニスの子供用自動車レース』(Kid Auto Races at Venice)で初めて登場している(チャップリン本人も最初受けるとは思わなかったという)。
(赤狩り)
チャップリンは無声映画時代で最も創造的な人物の一人である。
俳優、監督、脚本家、ディレクター、そして時には自らの映画のための作曲家までもつとめた。
しかし、第二次世界大戦前の1936年に製作された『モダン・タイムス』のあたりから、鋭進的な右左両派からの突き上げが激しくなった。
既に1933年の日本訪問中に偶々発生した国粋主義的な士官によるクーデター未遂事件(五・一五事件、後述)では「日本に退廃文化を流した元凶」として首謀者の間で彼の暗殺が検討されていた。
更に大戦前後の戦争あるいはファシズムを批判するチャップリンの作風が、第二次世界大戦が終結し、ソビエト連邦をはじめとする東側諸国との冷戦が始まったアメリカで「容共的である」とされ、非難の的とされた。
特に1947年の『殺人狂時代』以降には非難が最高潮に達し、ジョセフ・マッカーシー上院議員の指揮の下、「赤狩り」を進める上院政府活動委員会常設調査小委員会から何度も召喚命令を受けた。
その後、1952年に『ライムライト』のロンドンでのプレミアのためにイギリスに向かう最中、事実上の国外追放命令を受け、その結果、彼自身の意にはそぐわなかったが、スイスのローザンヌのアメリカ領事館で再入国許可証を返還しアメリカと決別する。
1965年、エラスムス賞受賞
アメリカを去ったチャップリンは、映画への出番もめっきり少なくなる一方で名士として尊敬され、また自身の作品の再編集や作曲に没頭した。
なお、彼が再びアメリカの地を踏むのは、アメリカを去って20年後の1972年に、アメリカ映画界からの事実上の謝罪を意味するアカデミー賞特別賞を手にしたときであった。
「モダン・タイムス」
:喜劇王、チャールズ・チャップリン監督・主演、ひとりの刑務所上がりの男の姿を通して、1930年代のアメリカの機械文明を痛烈に風刺した作品
(死去)
1975年には、それまでの活動を評価され、ナイトに叙され「サー・チャールズ」となった。
1977年のクリスマスの朝にヴェヴェイの自宅で没した。
死後、金銭目的で墓から遺体が持ち出される事件があったが、遺体は墓の近くの農地で発見された。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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